最近、がん治療のお供として「水素吸入」が注目を集めています。
水素ガスを吸うだけのこの療法が「がんに効く」といった情報をインターネット上で見かけることもありますが、本当なのでしょうか?
この記事では、がん患者様やそのご家族の不安に寄り添い、水素吸入に関する客観的な事実、すなわち「期待できること」と「現時点での限界」を、最新の研究論文などの科学的根拠(エビデンス)に基づいて、どこよりも分かりやすく解説します。希望と冷静な視点の両方を持ち、ご自身にとって最善の選択をするための一助となれば幸いです。
なぜ今、がん治療で「水素」が注目されているのか?
水素と聞くと、燃料やエネルギーといったイメージが強いかもしれません。
しかし、医療分野では、その「体をサビつきから守る力」が大きな注目を集めています。
体をサビつかせる「酸化ストレス」は、老化や多くの病気の原因とされ、がんとも深い関わりがあることが分かっています。
この章では、水素ががん治療のサポートとして期待される基本的なメカニズムについて解説します。
がんの原因にもなる「悪玉活性酸素」とは?
私たちは呼吸によって酸素を取り込んでいますが、その一部は体内で非常に反応性の高い「活性酸素」に変化します。活性酸素には、ウイルスなどを撃退する「善玉」の働きもありますが、一方で細胞を無差別に傷つけ、がんの発生や増殖、転移の引き金となる「悪玉」も存在します。
特に最も酸化力が強く凶悪なのが「ヒドロキシルラジカル」と呼ばれる悪玉活性酸素です。このヒドロキシルラジカルが、細胞のDNAを傷つけることで、がんの根本的な原因になると考えられています。
水素の特筆すべき点は、体にとって必要な善玉活性酸素には反応せず、この非常に有害なヒドロキシルラジカルだけを選択的に中和し、無害な水に変えて体外へ排出してくれる点にあります。1)
水素のすごい力は「抗酸化作用」だけじゃない
水素の働きは、悪玉活性酸素を除去する「抗酸化作用」だけではありません。
近年の研究では、体内で過剰な炎症を引き起こす物質を抑える「抗炎症作用」や、細胞が不必要に死んでしまう「アポトーシス」を抑制する「抗アポトーシス作用」など、多彩な働きがあることが分かってきました [2]。
これらの作用が複合的に働くことで、がん治療によって引き起こされる身体へのダメージを軽減し、患者さんのQOL(生活の質)を維持・向上させる可能性が期待されているのです。
水素吸入はがんに効果があるのか?最新エビデンスと現状
読者の皆様が最も知りたいのは、「で、結局がんに効果はあるの?」という点でしょう。
ここでは、科学的な研究結果(エビデンス)に基づき、現在の水素研究がどこまで到達しているのか、客観的な事実のみをお伝えします。
水素が「がんそのものを消す」わけではない
まず、最も重要な注意点からお伝えします。現時点において、「水素が直接がん細胞を攻撃し、がんを消滅させる」ことを明確に証明した、質の高い臨床研究の報告は存在しません。もちろん基礎研究や動物実験などでは、そうした可能性を示唆するものもいくつかありますが、ヒトを対象とした研究では、まだまだです。2)
そのため「水素でがんが治る」といった情報は、科学的根拠に乏しい誇大広告である可能性が極めて高いため、決して鵜呑みにしないでください。
水素研究の主眼は、あくまでがん治療の「補助」として、いかに患者さんの負担を減らせるか、という点に置かれています。
副作用の軽減とQOL向上への期待【論文・研究紹介】
水素吸入が最も期待されているのは、抗がん剤や放射線治療に伴う様々な副作用の軽減です。
標準治療はがん細胞を攻撃する強力な効果を持つ一方で、正常な細胞にもダメージを与えてしまい、倦怠感、吐き気、食欲不振、皮膚炎といった辛い副作用を引き起こします。
こうした、標準治療に伴う負の側面(副作用)をできるだけ抑えて、しっかりと治療を継続していくサポート役として、水素吸入に注目が集まっています。
抗がん剤による副作用軽減の可能性
抗がん剤の副作用として、吐き気・嘔吐や脱毛、味覚障害や食欲不振など様々なものがあります。水素吸入はこれらの副作用を軽減させる効果が期待されています。
関連する主な研究報告は以下のとおりです。
- 2019年の中国の臨床研究では、抗がん剤治療中の82名の進行がん患者に4週間の水素吸入を実施し、吐き気や嘔吐の発生率が有意に改善したことが報告されています。3)
- 非小細胞肺癌患者を対象とした2024年の臨床試験では、水素吸入を抗がん剤治療と併用したグループで、腫瘍の進行抑制効果とともに抗がん剤による多様な副作用が軽減されたことが示されました。4)
- そのほか複数のレビュー論文やシステマティックレビューでも、水素吸入療法が化学療法中の副作用(特に骨髄抑制、消化器症状、味覚障害など)やQOL(生活の質)の改善に一定の効果を示す可能性が示されています。5、6)
放射線治療による副作用軽減の可能性
放射線治療は、大量の悪玉活性酸素(ヒドロキシルラジカル)を発生させることでがん細胞を死滅させますが、同時に周辺の正常組織も傷つけてしまいます。水素吸入を併用することで、これを防いで副作用を軽減する可能性が期待されています。
これまでに報告された関連研究として、以下のようなものがあります。
- 2021年の研究は、強度変調放射線治療(IMRT)を受ける患者に水素ガス吸入を併用した結果、骨髄抑制(白血球などの減少)が有意に抑制され、抗腫瘍効果を損なわずに副作用軽減が認められたと報告しています。7)
- 2024年の臨床試験では、進行頭頸部がん患者10例に対し、放射線治療+化学療法と水素ガス吸入(各1時間、平日33回)を組み合わせ、安全性と副作用軽減効果(主に造血毒性/白血球減少や皮膚炎・咽頭炎の軽減)が確認されました。8)
- ラットモデルや細胞実験でも、水素ガス吸入が放射線皮膚炎・口腔粘膜炎・骨髄抑制・肺障害などの発症を有意に軽減し、傷の治癒促進・QOL(生活の質)向上が示されています。9)
これらの研究結果は、水素が標準治療の効果を損なうことなく、その副作用を和らげる「サポーター」としての役割を担う可能性を示しており、今後のさらなる研究が待たれます。
一部の病院では「自由診療」としても実施
こうした研究背景から、全国の一部のクリニックでは、がん治療の補助療法として、保険適用外の「自由診療」で水素吸入療法を提供している施設が増えています。
標準治療による副作用の軽減や、QOLの向上を目的として導入されており、患者さんの選択肢の一つとなっています。
ただし、自由診療であるため、その効果や安全性、費用については各施設で異なるのが現状です。
水素吸入のデメリットと副作用、注意点について
水素吸入を検討する上で、メリットだけでなく、デメリットや注意点も冷静に把握しておくことが極めて重要です。
まず、副作用についてですが、水素分子(H2)は厚生労働省によって食品添加物(既存添加物)として認められているほど安全性の高い物質です。体内で悪玉活性酸素と反応した後は水になるだけで、体に蓄積して害を及ぼすことはないと考えられており、現在のところ重篤な副作用の報告はありません。
しかし、デメリットや注意点として以下の点が挙げられます。
- 保険適用外で費用が高額になりがち
がん治療の補助として行う水素吸入は、公的医療保険が適用されない「自由診療」です。そのため、全額自己負担となり、治療が長期にわたると経済的な負担が大きくなる可能性があります。 - 確実な効果が保証されているわけではない
前述の通り、副作用軽減に関する有望な研究報告はありますが、まだ研究途上の段階であり、すべての人に同じような効果が現れるとは限りません。過度な期待は禁物です。 - 誇大広告や不適切な情報が多い
「がんが治る」などと謳う業者には厳重な注意が必要です。特に、標準治療を否定し、水素吸入だけで治療しようと勧めるような場合は、絶対に避けるべきです。
水素吸入を始めるには?具体的な方法と費用
実際に水素吸入を試してみたい場合、主に2つの方法があります。
それぞれの特徴と注意点を理解し、ご自身の状況に合わせて検討することが大切です。
選択肢1:自由診療クリニックで受ける
医師や専門スタッフの管理下で水素吸入を受けられるのが最大のメリットです。
がん治療との兼ね合いや体調の変化について相談しながら進めることができます。
費用は1回60分程度の吸入で、3,000円~5,000円程度が一般的です。週に数回など、継続して通う場合は、回数券や定額料金が設定されていることもあります。
クリニックの選び方
クリニックで水素吸入を受ける場合は、以下の点に注意しておくと良いでしょう。
- がん治療に理解のある医師が在籍しているか
- 料金体系が明確で、事前にきちんと説明があるか
- 使用している機器の水素発生量や安全性が明記されているか
- 無理な契約を迫らないか
選択肢2:家庭用吸入器を導入する
自宅に水素吸入器を導入する場合は、クリニックに通う時間や手間を省き、好きな時に好きな分だけ吸入できるのがメリットです。ただし、機器の選定は慎重に行う必要があります。
家庭用水素吸入器の相場は数十万円から、高性能なものでは100万円以上するものまで様々です。初期投資が高額になるのがデメリットと言えるでしょう。
機器を選ぶ際は、以下の点に気をつけておくと、大きな失敗は避けられるでしょう。
- 水素発生量と濃度: 効果を得るためには、十分な量の水素(毎分500ml以上が目安)を発生させる機器を選ぶ必要があります。製品仕様を必ず確認しましょう。
- 安全性: 長時間使用するものなので、安全性が担保されていることが重要です。第三者機関による認証などを取得しているかどうかも一つの目安になります。
- メンテナンス: 定期的なメンテナンスが必要な場合が多いため、サポート体制がしっかりしているメーカーを選ぶと安心です。
安価すぎる機器や、科学的根拠の乏しい効果を謳う製品には十分注意してください。
がん治療に水素吸入を取り入れる前に必ず確認すべき3つの重要ポイント
現在がん治療をされている方、これからがん治療を始められる方が水素吸入を検討する際、誤った判断で貴重な治療機会を逃すことがないよう、以下の3つのポイントを必ず守ってください。
1. 必ず主治医に相談する
これが最も重要です。ご自身の判断だけで水素吸入を始めることは絶対に避けてください。現在受けている治療内容やご自身の病状を最もよく理解しているのは主治医です。
「副作用の軽減を期待して、水素吸入というものを検討しているのですが、先生はどう思われますか?」というように、必ず事前に相談し、許可を得てから始めましょう。
必要であれば、上述した研究報告も見せて確認してもらいましょう。
2. 標準治療を決しておろそかにしない
何度も強調しますが、水素吸入は、あくまで手術・抗がん剤・放射線治療といった「標準治療」を補助する可能性のある選択肢の一つです。
科学的に有効性が確立されている標準治療が、がん治療の根幹であることに変わりはありません。水素吸入のために標準治療を中断したり、変更したりすることは、命に関わる危険な行為です。
3.「がんは治る」という誇大広告に騙されない
藁にもすがる思いで情報を探していると、魅力的な言葉に心が揺らぐこともあるかもしれません。
しかし、「絶対」「100%」「奇跡の治療法」といった言葉で断定的に効果を謳う情報には、必ず裏があります。
医薬品医療機器等法(薬機法)では、未承認の医療機器や健康食品が「がんに効く」などと効果を謳うことは固く禁じられています。がんと診断され、精神的にもショックでパニックになってしまう気持ちはわかりますが、冷静な目で情報を見極める力を持ちましょう。
まとめ:がん治療における水素吸入との賢い付き合い方
この記事では、がん治療における水素吸入の可能性と限界について、科学的根拠を基に解説してきました。
最後に、重要なポイントを改めてまとめます。
- 現状、水素吸入ががん自体を直接治すというエビデンスはありません。
- 水素の主な役割は、体内の悪玉活性酸素を選択的に除去することにあります。
- 現状では、放射線治療や抗がん剤の副作用を軽減し、QOL(生活の質)を向上させる可能性が複数の研究で示唆されています。
- 水素吸入は標準治療に取って代わるものではなく、あくまで「治療を乗り越えるためのサポーター」として、主治医と相談の上で慎重に検討すべき選択肢の一つと言えます。
がんという病気との闘いは、決して平坦な道のりではありません。しかし、正しい知識を武器に、ご自身が納得できる治療法を選択していくことは可能です。この記事が、その一助となることを心から願っています。
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